よくテレビのドラマなどで、人の愚痴には「わかるよ」と寄り添っている場面を見かけます。そして、自慢話をしている人から、距離をとっている場面があるような気がします。そして、これは何となく現実にも起きているような気がします。何となく自慢話をしている人とは距離を置きたくなってしまいます。
しかし、どちらも“自分の気持ちを話している”という点では同じなのに、受け手の反応はまったく違います。そして、この不思議な現象には、共感・自己評価・社会的比較・承認欲求といった人間の深い心理メカニズムが関わっているようです。そこで、今回は、この点に注目することにしました。なお、以前のブログに関係した内容なものがあります。参照してみて下さい。褒め言葉が苦手な人の心理──自己不一致・予期不安・過去の学習
このブログでは、なぜ人は愚痴には共感し、自慢には距離を置くのかの要因について調べましたので以下に説明します。
愚痴には「共感の入り口」があるが、自慢にはない
愚痴は、困っている、悩んでいる、うまくいかないという“弱さ”を含んでいます。そして、弱さを見せる人には、「自分と同じだ」と感じやすく、共感の回路(前帯状皮質・島皮質が働きます。しかし、一方、自慢は成功、優位性、自己アピールといった“強さ”を示します。そのため、心理的距離が生まれやすいことになります。
自慢は「社会的比較」を強制する
社会心理学者レオン・フェスティンガーの 社会的比較理論 によれば、人は他者の成功を見ると、自動的に自分と比較してしまいます。以下のような例があります。
- 「自分はどうだろう」
- 「負けている気がする」
- 「評価されていない気がする」
そして、この“無意識の比較”が、不快感・劣等感・距離感を生みだします。しかし、愚痴には比較が発生しないため、むしろ「同じ側に立てる」安心感が生まれます。
自慢は「自己呈示(セルフプレゼンテーション)」が透けて見える
人は誰しも、「よく見られたい」という 自己呈示欲求を持っています。しかし、自慢話はその意図が露骨に見えるため、受け手は以下のように感じます。つまり、自慢は“相手に役割を押しつけるコミュニケーション” になりやすいことになります。
- 「承認を求められている気がする」
- 「評価を強要されている気がする」
- 「こちらが下に置かれている気がする」
愚痴は「関係性を近づける」働きがある
愚痴は、心理学的には 自己開示の一種です。例えば、弱さ、不安、悩み、本音といった“内側の情報”を見せます。そのため、受け手は「信頼されている」と感じます。そして、その結果、心理的距離が縮まり、関係が深まるという効果が生まれます。
自慢は「承認の奪い合い」を生む
自慢話を聞くと、受け手は無意識に以下のように感じます。
- 「自分の価値が下がる気がする」
- 「相手が優位に立とうとしている」
- 「こちらの承認欲求が満たされない」
つまり、自慢は承認の奪い合いを引き起こしやすくなります。しかし、一方、愚痴は承認を“共有”できます。そのため、関係が壊れにくくなります。
愚痴は「共感の報酬」を生むが、自慢は「評価の負荷」を生む
脳科学的には、愚痴に共感すると オキシトシン が分泌され、安心感・つながりを感じます。しかし、自慢話を聞くと、脳は「評価しなければならない」と判断します。そして、前頭前皮質に負荷がかかるため疲れてしまいます。つまり、以下のような関係になります。
- 愚痴 → 報酬(つながり)が生まれる
- 自慢 → 負荷(評価)が生まれる
まとめ
ここまで、なぜ人は愚痴には共感し、自慢には距離を置くのかの要因について説明しました。そこで、要因について、愚痴には「共感の入り口」があるが、自慢にはない、自慢は「社会的比較」を強制する、自慢は「自己呈示」が透けて見える、愚痴は「関係性を近づける」働きがある、自慢は「承認の奪い合い」を生む、愚痴は「共感の報酬」を生むが、自慢は「評価の負荷」を生むを説明しました。
そして、人が自慢する人から離れるのは、自慢が嫌いなのではなく、自慢が生む心理的負荷が大きいからでした。そして、それには以下のような要因がありました。
- 社会的比較が起きる
- 承認を強要される
- 自己呈示が透けて見える
- 評価の負荷がかかる
- 心理的距離が広がる
一方、愚痴は、以下のようなという“つながりのコミュニケーション”になります。
- 共感が生まれる
- 心理的距離が縮まる
- 承認を共有できる
- 安心感が生まれる
自慢する人は、1回だけでなく比較的多く自慢話をしているような気がします。その回数も含めて上記のような要因が強められるような気がしました。そして、共感がないという部分が大きく影響していいるような気がしました。

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